日本の教育と心の病

むしろあの教育システムで不登校にならなかった自分が、おかしい

何らかの理由で学校に馴染めずに不登校になった子どもたち。

今の時代、無理に学校に行かなくても良いという考えがやっと肯定されてきている。不登校になった理由の一つでもあろう、教育システムの改善も多く声が上がっている。

私は不登校になったことがない。毎日学校に通っていた。しかし今振り返ると、むしろあの教育システムで不登校にならなかった自分が、おかしいとも感じるようになった。

なぜ同調圧力に苦痛を感じずに、屈していたのだろう。なぜ「皆で一緒に同じことをするのが当たり前」と考えていて「皆と同じことをする意味が分からない」と感じなかったのだろうか。他人の設定した普通を達成すると得られる評価に、なぜ疑問を感じなかったのか。

小中高大、授業は先生がリードして1つの正しいとされる答えを出す進め方が中心だった。「授業中は話すな!」と怒る先生もいた。「手をあげて発言したら1点」というシステムを取る先生もいた。手をあげないとわざと指したり、怒鳴る先生もいた。だから恐怖で分かりもしないのにみんなが一斉挙手した。

教育者にバラつきがあり、自分の個性どうこうより、先生ごとに好かれる人間になろうと自分をコロコロ変えていた。

授業はつまんなかった。でも、学ぶことってつまらなくて苦痛なのが当たり前だと思っていた。なぜ学校に行っていたかというと、行くのが当たり前だと思っていたから。行かない選択はない。ほぼ、友達に会うのと部活に行くために通っていたと思う。

テスト前は知識を詰め込んで暗記して、テスト後は忘れる。その繰り返し。知識の詰め込み教育はつまらない。何か人生に役立つことが身についたのであろうか。生きづらさなら身についたと感じる。

のちにアメリカに留学をした時、こんなにも日本と授業の雰囲気も先生の教え方も違うんだと驚いた。どの先生も「生徒の一員」のような存在で、生徒の考えをどんどん聞いて、会話に”みんな”が参加していた。異なる意見も全てが「その子にとっての正解」だった。

「なぜそう思ったの?」「相手はどう感じると思った?」こういう時に先生がうまくリードしてくれていた。自分という人間を否定されないことが、驚きであった。 自分の意見が堂々と口から出てこなくて悩み始めたのもこの時期。

このような思考教育が、子供の頃から「違いを認め合うこと」に繋がっているんだと感じた。正解も不正解もないので、間違いを恐れることなく生徒も積極的に発言するし、自分で考える大切さを学ぶ。学ぶことを楽しめる。

自分で考えることができれば、自分で行動できる。他人の人生を生きなくていい。他人の決めた普通を達成することで評価されなくていい。自分で自分を認められる。

不登校の理由はそれぞれだと思うが、何か思うことがあって「学校に行かない」と自分で決めて行動できたことは素晴らしいと思う。心が健康であることが一番大切。人生の通過点に学校での学びがあってもなくても、自分のペースで自分が選んだ場所で自分らしく生きて欲しい。

今いる環境が苦痛なのに、子供のうちから我慢してまでい続ける決断をしてしまう方が心配なケースだと思う。理不尽なことでも言われたことは従い、自分を抑圧して周りに合わせるのが生きる術として身についてしまえば、大人になった時には同じ苦痛を自分で引き寄せてしまう。

自分を犠牲にしてまでも会社に従い仕事を優先し、夫婦間ではいつの間にか従属する側とされる側という関係性が築かれてしまうこともある。「自分の意思で生きていない」ことがおかしいと気づけないかもしれない。自分を大切にされない環境からは早めに離れた方がいい。

自分より大切なものなんて、ない。