皆さんの体験談

身近な障害と子育て(とある鍵垢ママさん編)

息子は自閉スペクトラム症(ASD)です。学校では先生達には説明してサポートを受けていますが、生徒には公表せず過ごしています。公表の有無も含めて担任の先生と何度も相談と検討を重ねてきました。 

“理解が必要な場合は公表する”考えを担任と専門の先生に伝えていますが、先生達のフォローだけで上手くいっているという話と、息子が楽しそうに過ごしている様子から、先生達の判断に任せてきました。

そういった経緯もあり、私が利用するSNSでは鍵垢でしか触れていません。

しかし徐々に息子の口から、感覚過敏があるという事を友達に打ち明けていると聞きました。またお友達も何かあるみたいとザックリな情報も私に話した日がありましたが、その何かについて掘り下げる事はしていません。

息子に特性の一つを話せる友達がいる事が嬉しく思います。息子には隠さないといけない事と捉えて欲しくないからです。また同様に周りの人に対しても抱えてるものがあれば、否定や差別のない気持ちで受け入れて欲しいと願っています。

自分が困らない為に

子育ての関わり方として考えている事は、親が守り育てていくスタートから徐々に手放す事をイメージして関わっています。例え障害があり一生手助けを要する場合でも、その子より親の私が長く生きる可能性は低いからです。なにより自分がいなくなっても幸せに生きて欲しいと願っています。

そして親の私が手を離していく理由や動機は「子ども自身が困らない為」であって「人に迷惑をかけるから」という表現は避けています。「人に迷惑をかけない」という部分もわからなくもないですが、それは身近な人達を困らせたくない感覚です。詳しく説明すると、手助けしてくれる人の幸せも守りたいと考えています。なので誰か1人に頼ると負担が大きい為、分散して多くの人や公的機関に頼る事を心がけています。また依存や支配の恐れも避けたい気持ちもあるからです。

私が息子の放課後デイサービスを選んだ基準もそうでした。「誰かに手助けを求められるようになる」事を意識されていた場所だったからです。あの時どう言えば良いか等、学校で困ったエピソードも放課後デイの職員と共有してプログラム内容に取り組んでくれて、テスト中に花粉症で鼻水が止まらず困った時は手を上げて訴えて良いし、周囲が気になるのなら保健室で受けられないか?尋ねても良くて、断られたとしても尋ねた事は悪い事では無いと言う事を息子に伝えた事があり、放課後デイ職員もSSTの参考にしてくれてます。

またテスト中にミス問題が発覚して解答欄の変更など起こり、対応出来なかったと聞いた時は、息子ではなく教員達にフォローをお願いしています。息子には、それを私などに困った事を伝えられた事を肯定しました。誰かの手助けを求める事は、障害の有無関係なく、誰にとっても大切な事だと常々感じています。

受け入れられる幸せ

工夫や積み重ねの先に可能性が広がる事も体験してきましたが、出来ないままの自分でも良いと考えています。この出来ないままだとしても、どうやれば困らないのか?道具でも方法でも人の手助けでも借りられる力が必要だと思っています。これも工夫や積み重ねのうちの一つだと考えているからです。そして手助けする側にいる時は、どのような困りごとがあって、どのように解決ができるのか?一緒に考えて体験できる事は理解にも繋がり財産だと感じています。

結局のところ、人は平等に老いていくので、いずれ自分も出来ない事が1つ2つと出てくるその時に備えた経験になる事もあれば、自分も含めて周りの人にも起こる予想外の怪我や病気から障害を生じる事もあるので、この手助けしてきた体験は財産になるはずです。また障害への理解は、受け入れる事でもあります。もし自分自身に障害が生じた場合も困る事はあっても大きなショックは少ないのではないかと感じています。

私自身が看護職というのもあり、障害や老いと向き合う方たちが身近にいる環境ですが、それでも感覚は自分にしか分からないですし、比較しようがありません。そして私自身が途中で身体の障害を負うことになりました。もともと障害への差別はなく子ども達にも「かわいそうな存在ではない」と伝えていたので、母親の私が障害を負った時に、学校の授業参観という場面でも自然と手助けしてくれる子ども達でした。

息子のASDという特性も、私の身体障害という不便さも、周囲の理解や手助けを要す場面が多くありますが、向き合う事も助けてもらう事も自然にできる準備があったのは、私たち家族の強みの一つだと感じました。

常に誰かの困りごとや不便さは、いつかの自分、もしくは自分の身近な人の問題になる時が来るかもしれないと考えられると、手助けする側も貴重な体験になり、手助けを必要とする側も感謝をしても申し訳なさまでは抱かなくても良い、という気持ちになるのではないかと想像します。

異なる考え方との出会い

息子は「発達性協調運動障害」という診断も受けており、とても不器用だったりバランスを取るのも苦手です。そういった状態から、何かに掴まって立ち上がる事も多いのと、危険を予測するのも苦手なため、倒れてしまう場所に掴まり物を壊す事もあります。

怪我が多く私は声を荒げて止めてしまいます。親としての未熟さがありますが…後から声を荒げてしまった理由を説明して、強い言葉や声のボリュームで脅すような結果になった事も謝ります。

一方、息子は相手の顔を見て発言を調整できるタイプでは無いので、家族に向けた発言が鋭利な事もあります。シャットダウンもするので本人にとって疲れや辛さがあれば、まず固まります。そして眠ります。目覚めた時、傷つけた家族は視界に入っておらず、スッキリした気持ちに変わっています(笑)なので話し合うタイミングを図る日々です。

顔色を伺わないような息子でも、家族の表情から感じとるのもあるので、私は「なぜ悲しんでいるのか?怒ってしまったのか?」伝わる方法で話しますが、それでも息子の考えもあるので面白いですね。お互いの考え方を照らし合わせ事で双方の考え方が広がるように感じます。そしてお互い歩み寄れない日もありますが、障害があろうとなかろうと誰かと近くで生活していくと、こういった事の積み重ねが自然の形なのかな、と感じています。

また息子の度重なる破壊で、金銭的にも精神的にも私が疲れてしまう時は「分散して多くの人の手助けを受ける」に繋がるのですが、気持ちを吐き出す場所をいくつか持っています。友達と話すだけでなく、その友達と繋がってるSNSで「壊されたー!」「疲れた」「虚しくなる」など気持ちを吐き出せば耳を傾けてくれます。直接、友達に時間を使ってまで話すほどでもなく、誰かに聞いて欲しい時や元気をもらいたい時などはSNSにも助けられますね。さらにSNSでは昔からの友達だけでなく共通のものを通して出会った人達もいるので、壊されたものの写真を見て笑ってくれる仲間もでき支えられています。

私自身の疲労や悲しさなどの気持ちに対して、息子を批判したい目的は無いです。誰かを肯定する時に、もう一方の人を下げるような批判などは不要と考えているので、私の周りには“人に対しての優劣をつけない”人が多くいるため、この環境に助けられてばかりです。

そして子ども達にとっても、私のように批判で逃げたり守られたりではなく、支え合える場所が増えていければと思います。異なる考え方と出会った時に、その異なる考えの一部分であっても触れたり知れたりすることで、また一つ世界が広がると信じているからです。

親子間であっても感じる異なる考えに戸惑う時、親子間で解決できる日もあれば家族みんなで解決できた事もあります。さらに私は自分のキョウダイや友達に助けられる事もあります。

他者との異なる考えにショックを受けた事もあれば家族の存在に癒される事もあので、結局のところただ1つしか関わりがない世界だと、そこでの関係が全てになり、生きにくくなるのではないかと考えています。

優しく教えてくれてありがとう

私と一緒に振り返りをしている時に、息子はよく「優しく教えてくれてありがとう」と言ってくれます。「優しく」がついてる時点で、私に対して何かしらの思いがあるんだろうなーって考えています。それも含めて反省してますが、次に活かすための反省なので、まだまだ関わり方を山ほど探したいと思っています。

またその息子との振り返りから、(特に繰り返す破壊や失敗について)何かに挑戦して失敗した時、やった事も凄ければ、失敗した理由に気づいたら更に天才!なんですよね。なのに失敗した理由もわかってて再び失敗する時だってあるのに、私は「…」という顔してしまう日もあるんです。

何度も繰り返しながらゆっくり成長してきた事や、別の方法を探したり回避する事も全て息子が上手に成長しているのに、私に余裕がなく私の方こそ上手く許容できてない失敗があります。

息子は「ママの言い方は悲しかった」
娘は「ママの言い方は腹が立った」

と日頃から私に気持ちを伝えてくれるので、私は反省するのも早いですが、すぐに立ち直ってます。家族みんなが、お互いにどう伝えれば良いのか?試行錯誤ですが、失敗したとしてもこうやって伝えようとする、聞こうとする関係が私たち家族にとって大きな土台になっていると感じています。

人の気持ちを想像するのが苦手なはずだった息子ですが、一緒に振り返る事を積み重ねていくと、私や娘の気持ちを覚えてくれてるし、何より「優しく教えてくれてありがとう」と言いながらも聞こうとしてくれてるんだと感じます。それだけで全てを理解し合えなくても充分です。

私こそ息子から優しく教えてもらってばかりですね。

発達障害関連の情報

発達障害関連について、無責任に情報を発している場所には憤りを感じています。またカサドラについては、その情報を目にする度に、親だからなのか?胸が痛んでいました。

カサンドラに対しては、なぜ共感を求めるのに、相手への理解や尊重が不足してしまうのかと疑問も抱きます。また察する事を求め過ぎてはないかとも感じています。ただ、これまで満たされる事なく、また我慢の連続から生じている事も推測できますが、こういった状態こそが生きにくさではないかと心配もしています。

なので日常で特定の人にストレスを受け、その不満も限界に来てたり抱えきれなくなったりして、強い批判感情が溢れている人は、カウンセリングなどサポートが必要だと感じます。ただ日本にはそのサポートが弱かったり、カウンセラー自体が偏見を持っていることがあると聞き残念に思います。

偏見を持たれる側だけでなく、無意識に偏見を抱いてしまう方にとっても、違いを差別や偏見としてではなく、個々として考え、個々としての適切な距離感を保てれば、柔軟な部分が育まれて生きやすさの一つに繋がるのではないかと思っています。

結局のところ、世間や周囲に合わせる事が優先とされる厳しい社会の価値観でいると、他者に対しても求めるものが厳しく受け入れられる心が狭くもなり、時には自分自身にも厳しく生きにくくしているのではないかと推測します。

発達障害関連について、無責任に情報を発している場所には憤りを感じている反面、そういった障害のある方との関係が上手くいかず、配慮ばかりに追われて自身は満たされる事なく我慢の連続で心が悲鳴をあげている方々が、他者否定や批判ではなく、上手な距離の取り方や心の保ち方、ケアする場所や方法の情報が少しでも増えれば…と思い、今回あくまでも個人の一例ですが、私自身の体験を書かせて頂きました。

私にとっての普通

私の日常では、息子を通して発達障害を知ってくれる人が増えています。息子のお友達のお母さんは、息子の魅力を私に伝えてくれてます。息子の不器用で真っ直ぐな優しい姿、愛おしい存在だという事もです。ASDの魅力も大変に感じてしまう事も含めて偏見のない交流がとても嬉しいです。そしてASDに対してフィルターがなく、息子自身を見てくれる人が増えればいいなと思っています。

あるお母さんから悩みを打ち明けられて、息子の受診先のクリニックを紹介した事もありますが、そこでは息子とは少し違う診断がつきました。そして少しサポートが必要だとわかりました。私にとっては息子も、その紹介したお子さんのケースも珍しい事とは思っていません。身近に誰かしら、なにかの特性を持った子もいるのが私にとっての「普通」です。

少し話しが逸れますが、私には娘と息子がいて名前を決める時に2人とも性別がわかりにくい名前を選びました。理由は身体の性別しか分からないからです。成長して心の性別がわかった時にどちらにも対応できる名前をプレゼントしたかったからと説明して、心の性別は自由で個人が決める事だと伝えていました。

なので「たまたま心と体の性別が一致している」
障害や病気がないのも「たまたま病気もなく事故や怪我もなく健康な体だけ」「今後はわからない」という意識があります。

いつだって身近な人に何かしらの手助けが必要になる可能性や、何事もいつか自分の番かもしれないと捉えています。

親として願う事

息子は成長してます。周りを見たり、周りの人の反応から感情や考えを想像しようとしています。そして私は、そんな息子が将来働くようになった時や、家庭もしくはパートナーを持った時に、少しでも息子自身が特性を知って、その対応方法・知恵や経験に繋がるようなサポートを意識しています。

目の見える人・見えない人に伝える方法、聴こえる人・聴こえない人に伝える方法が様々なように、ASDの特性と息子の個性を尊重しながら、息子には自分と違う特性の人との関わり方をたくさん体験して、大人になって欲しいです。

何度もこちらでも書いていますが、困る事のないよう手助けしてもらえる豊かな生き方をして欲しいと願っています。

もちろん息子が手助けする側になったり支え合えたら嬉しいですが、まずは身近な人を大切にできて、たとえ思考が異なる相手であっても尊重や思いやりを心がけ、結果として恵まれた交流になる事を願っています。

それはパートナーの有り無しでもなく、友達が多かろう少なかろうでもなく、生活していく上で、活動の場など自分が安心できる世界が作れて、そこでの身近な人との関係が、息子にとって苦しまずに済むようにという事です。今は親がいる家庭が存在していますが、いつか息子が困らない形で社会へ送り出したいと思っているからです。

そのために自分を大切にする事、人を大切に思う事に重きをおいています。

浮く事を気にしないのが楽

私の過去を振り返ると、同調圧力をスルーしがちで浮いてきました。浮かない事も良いけれど、けっこう浮いていても気にならない場合もあるので、浮く事を恐れない気持ちは便利だと思います。大切なものの存在が大きければ、周囲の目なんて小さすぎますからね。

私の価値観は周囲からどう思われるかより、大切したい人と自分との関係や、お互いの気持ちに意識がいきます。そして息子が浮いていたとしても、息子が満足できる日々を送れている事が何よりです。